生きていれば一度は「善悪の基準」についてや「正義・悪」について考えたことがあると思います。

何が悪なのか、何が善なのか、正直そんなことは、なんとなくでも上手く言語化できなかったとしても、大体の人間が理解していることです。

しかし、そんな善悪の基準はとても簡単に変わります。人の心理というのは複雑で曖昧です。機械のように決まったことに準ずることはできません。

その影響からか、私達の生活には一般的に「悪」とされるもので溢れています。「悪」がしてはいけないことだと理解していても、人は悪いことをしてしまう生き物です。

今回はそんな人という生き物の「何をもって善悪の判断をしているか」「何故そんな基準ができたか」にていて解説していきます。一旦「正義」という言葉の意味を貼っておきますので、この言葉が「何を基準としているか」という点で参考にしてみてください。

正義(せいぎ、英: justice、仏: justice、独: Gerechtigkeit、羅: jūstitia、希: δικαιοσύνη)は、明治以降「義」に代わって使用され、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な正しさに関する概念である。

Wikipediaより引用

※人の心理的・脳科学的観点から見た一つの説、として見て頂くようお願いします。

快・不快で決まる

人の善悪は「大多数の人間の快・不快によって決まる」可能性があります。

例えばですが、人間が「10人」しか存在してないとします。その中の「8人」が「2人」をいじめていたとします。

その場合、その場において「いじめ」は善となります。大多数の人間か愉快に思っているこの環境下において、いじめられる2人が不快に思ってもこれは覆りません。

これはたとえこの人たちが、現代の一般的である道徳を得ていたとしても変わりません。人という生き物は「人数」を基準に正義が形成されるのです。

人は常に「他」を基準に自分の世界を形成します。そうでないと何も決めれず、何も考えきれず、不安定な精神状態となってしまうからです。

故に他を尊重するから「数」が重要になってくるのです。

自分の周りから人がいなくなった状態を想像してみてください。その時あなた中の善悪という概念はとても小さくなっていると思います。最終的になくなってしまうのかもしれません。

一般的な善悪の基準ができた流れ

上記の続きとなりますが、そのいじめを行っている「10人」の世界に「90人」の人間が追加されたとします。

その時にそのいじめの状況を把握した「90人」の人はこう思います。

「自分はあの二人のようにはなりたくない」

そこで人という生き物は「大勢で少人数を虐げてはいけない」という考えを主張するようになります。

人という生き物がここまで成長した理由は「身の安全」を確保する能力に長けていたからです。自分が被害者にならない為にもこのような考えが広がります。

「人を虐げはいけない」
「人の邪魔をしてはいけない」
「他を助けなさい」
「人の迷惑になることは悪」

自由が減り人に危害を加えることは困難になりますが、自分が邪魔されず、その分安全度が増します。安全を優先する人間に取って、この「自由」か「安全」かの二択なのであれば、迷うことなく安全を選んできたでしょう。

そうです。この流れで生まれた概念が「宗教」になるのです。

言ってしまえば、宗教は人が人に邪魔されることなく発展していく為のシステム、と言えるでしょう。

もちろん上記の例えのように、人類は100人ではありません。しかし、人類が増えて発展していく際の考え方については当てはまります。

人類が発展した理由

宗教は他の動物には存在しません。これはルールや助け合いだけではその種が発展しない大きな要因です。人間はこの宗教的考えがあったおかげで、生物の頂点に立てたと言ってもいいでしょう。

喰い合い、自分の身を優先しいる生き物は、結果的に周りに助けてもらえず邪魔をされます。そうなれば、生活だけで手一杯となり、発展は望めないでしょう。

そうならない為の考えを明確にし、確率させたものが宗教です。

「人に親切に、善となる行動をとりなさい」
「人の迷惑をかけることは悪」
「善い行いをしていると天国に行ける」
「悪い事をしていると地獄に落ちる」

誰も真実を証明できないのに、この考えは私達に根付いています。本当に神がいるどうかは置いておいて、結果的には自分を守ることに繋がっているのは事実でしょう。

しかし、この考えでいうと、宗教は人間が自衛と成長の為に作り上げたものであり、地獄に行きたくない、天国に行きたい、と幸せになりたいと思う人間を縛っているとも言えます。

善行・悪行を積むことは、幸せに関係がありません。あくまでシステムであり、信仰することによって自分の人生が変わることは無いとも思えます。

正義や善悪を毎回思考する

考える

上記を読んで、自分の善悪の基準に疑いを持った人もいるかもしれません。しかし、私はそれでいいと考えています。

それだと考えが曖昧な軸のない印象を受けるかもしれませんが、善悪はちゃんと毎回思考することが重要なのだと思います。

上記でも言いましたが、人の善悪は「大多数人間の快・不快」によって決まります。それならやはり、多くの人に不快に思われない、迷惑にならない考えが基になります。

「相手の立場に立って」「周りの人の立場になって」という思考を持てていれば、それは善であり正義と胸をはっていいと思います。

この議題に答えを見出すのは困難です。状況によっても大きく変わってしまいます。

なので、私としては「人の迷惑をかけない」「周りを思いやる」の意識をもって、毎回ちゃんと考えることを「善」と考えてくれる人が一人でも多くいてくれたらいいな、そういった思考を善悪の基準として持ってくれたらいいな、と願っています。